2014年9月2日火曜日

みてもいないテレビ番組

なんか,昨日辺りから色んなところで見つかる TV タックルの感想に関して.

これまでも何度か書いていることなんだけど,基本的に,(アニメ云々じゃなく,それがなんであろうと)メディアには大衆に影響を与える力はあるよ,という点をぼかすのは絶対にまずいと思っている.

「ドラゴンボール」をみてカメハメ波を打つ練習するのも,「けいおん!」をみてギターをはじめるのも,トレンディードラマをみてトレンディーな格好付けをするのも,ファッション誌をみて先端ファッションを真似るのも,お気に入りのセリフを暗唱してみるのも,メディアの特徴的な場面を AA にしてみるのも,ヤンキー漫画の口調を真似てワルぶってみるのも,詳細な自殺報道をみて後追い自殺が増加するのも,腹腹時計を読んで爆発物を製造するのも,なんでもそうだけど,合法違法直接間接の別を問わなければ,なににも影響を受けない人間なんて居ないわけで,メディアがユビキタスな環境下で,それを受け取る人間も,発信する人間も,自制は必要なわけで,それは特定のメディアに限ったことではない.「ある過激な表現のメディアをみても,それに影響を受けて重大な犯罪を犯しませんでした!」とかってドヤ顔で主張する人がいるけれど,そんなのは法に則った良識をもつ人間ならば当たり前のことなので,自慢するようなことではない.

で,なんで,いま,アニメがやり玉に挙っているのかって話なんだけど,その他のほとんどのメディアには過去に何らかの表現規制闘争があって,それを経て,作り手にも受け手にもある程度の線引きがなされてきた歴史があって,今度は,最近になって巨大化してきたアニメにその順番が回ってきているに過ぎないのよね.だから,過去に多くのメディアが妥協点みたいな,越えちゃいけないラインみたいなのを探ってきて,なんとなく許されている空気が出来上がったように,アニメでもそんなに遠くない将来に,そういうなんとなくの妥結点は出来上がるはずなのだ.

問題は,いまのネット社会の声がでかい層とアニメファンが被っていることで,有象無象の玉石混合な意見が,人の目につくところに氾濫してしまっているということなのだと思う.もちろん,意見の中には妥当なものだってあるし,逆にキ○ガイ染みたものもあるのだけれど,これらが見えてしまっているという環境は,過去の表現規制論争が,ある程度の理性的な識者の間で行われていたこととは大きく異なってしまっているとは思う.例えば,アニメを擁護しているようで全く論点のズレた「キチ○イ染みた意見()」がアニメオタクと思われる人から発せられたとき,アニメなんてほとんど興味がない一般人の目に触れてしまうということがどういう展開を招くかを考えてみると,それがいかに危ない状況かは分かると思う(もちろん,その逆もまた然りなのだけれど,僕個人は発信者の自制があった上でのアニメは擁護したい立場なので,こういう例にする).そもそも,一定の自制を促す意味で,表現規制はあっても構わないのであって(例えば,性器描写に規制があったってなくたって作品の本質は変わらないわけで),「アニメを作ることが禁止される」とか,トチ狂った制限がなされない限り(そんなことはアニメを理性的に擁護できる人間がいる限り起こりえない),将来に禍根を残すとも思えないのだ(「チャタレイ夫人の恋人」だって,「愛のコリーダ」だって,今となってはみられるじゃん.そもそも,「愛のコリーダ」は合法だったっけ?).

かなり多く比率でポル産系アニメのアンチが存在するように,ポル産とまでいかなくても小学生女児が性的な表現で描かれることに拒否感を示すアニメ好きが存在するように,グロアニメ,リョナアニメが絶対に無理と感じている人が存在するように,アニメのファン層にだって表現に対するラインの引き方は異なるわけで(=アニメファンであっても疑問を感じる表現が氾濫している,とも言える),アニメをみる層見ない層に関わらず,社会を巻き込んで議論をした上で,妥結点を見付けていくという過程は,むしろ,アニメの将来のために必要なことなんじゃないかと思うんだけどね,俺は.

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