2016年11月6日日曜日

無口になる

最近,口を開けばネガティブな言葉か,自分の心労がいかほどのものかという言葉しか出てこないので,あまり喋る気がなくなるし,どうでもいい馬鹿話に乗ってバカ笑いをしていられるくらいの精神的余裕もない.いろいろ,よくない.

こういう愚痴の類を表に出すのは自分の生き方に反するので,なんとなく,無口になるし,こういう場にも言葉を書く気も無くなってくる.そんなわけで,少しずつ,どうでもいいことを無理やり書いていこうかと思ったり,思わなかったり.

あー.とがしのつけ麺(黒)食いたい.

2016年10月12日水曜日

ちがう,そうじゃない

ノーベルウィークも終わって,大隅先生の受賞に沸いた世間の反応もひと段落した感がある.(受賞者の多くは毎回同様の内容を語っているんだけれど)今回,それなりに多くのメディアで「役に立つかどうか?」という評価軸は将来の科学の発展を殺しかねないとか,(ほとんど役に立つことのない)基礎科学を重視してほしいなどの発言がクローズアップされているのは,個人的にいい方向に進んでいるものだと思っている.

ただ,それらの発言を受けて,政府コメントで「ノーベル賞を生み出した研究がどういう環境下で行われたのかを調査して,将来のノーベル賞を生み出したい(要約)」的な発表をしているのを見かけて,ズッコケた.いや,そんな漫画的な表現で茶化せるレベルじゃなく,あまりの頭の悪さに絶望的な気分になった.

「ノーベル賞が取れるかどうか」なんていう希望的な観測は,現状の「役に立つかどうか?」という,ある意味で十分に意味がある評価軸と比べるのも失礼なレベルでどうでもよくて(誰もノーベル賞のために研究なんてしていない),もう,「なにを言ってるんじゃ?お前は」レベル.頭の頭痛が痛い.

なんだかもう,悲しくなってきたので,この辺でやめます.

(「役に立つ」という評価軸のこととか,基礎研究のこととかについては,いずれ,気が向いたらどこかに書くかも)

2016年6月30日木曜日

選挙の時期になると

思い出すのは,はじめて幸福の科学が選挙に出馬し始めたときに,幸福実現党から出馬されて惨敗した,自分が出た大学(その 2)の大先輩であるところの元微古生物屋の T さんとか M さんとか,いま,何してんのかな,とか思い出す.

あと,その大学にいた頃に,非常勤講師をしていたのに,何に目覚めたのか(というか,目覚めていたのは知ってた),昨年の宮城県議会議員選で自民の推薦を受けて出馬した O さん(有機地球科学者)とか,いま,どうしてるんだろう?大学戻ったのかな?

ぱっきんぐ

琥珀はなんでも包んでいてすごいなぁ.

2016年6月17日金曜日

今季初

異動して以来,まともにお外に出られない可哀想な僕ちゃんですが,今週は,ガッツリ調査に行けて,今季初のフィールドなのに,アホみたいに歩き回った結果,筋肉痛が未だに抜けないのでした.

調査中に,大量にまさに取りどきのタケノコを見つけたけれど,生えているところの沢の水が色々とアレなので,一本も取りませんでした.

2016年6月2日木曜日

林道の話

下衆の勘ぐりはその道のプロのネット民に任せて,性善説に立って話をすると,例の行方不明の男児,あまりにもなんの手掛かりがないあたり,置き去り地点を親が間違えている可能性がものすごく高いよね,と思っている.

一応,僕は,北海道の林道のプロに近いような人間だし,ニュース映像に一瞬映った Google Earth の衛星画像から,(割と何度か仕事で歩いている地点に近いからというのもあって)具体的な場所が特定できたくらいの能力を持っているけれど,そんな僕でも,林道を走っているときは,割りと真面目に頭を働かせながら走っていないと,林道の正確な地点や,曲がった三叉路,十字路の位置とかがわからないくなることがある.

それは,林道に入ってからもそうだし,それ以前の,国道から道道に入った地点,道道から町道や農業道路に入った地点,さらに林道に入った地点,どこでもそうだ.そして,また,そのそれぞれの入り口の様子がどこもほとんど変わらないうえ,地図に載っていない林道(作業道)が山ほどあるのだ.

置き去りにした地点を盛大に勘違いしているという可能性は,かなり高いし,むしろ,曖昧な記憶に依って決められた地点に固執するほうがどうかと思う.

さすがに,もう,無事ということはほとんどあり得ないのだろうけれど(特に,ここ 2 日の夜の気温は厳しい),せめて,本当に最後まで見つからないとか,ネット民の下衆な勘ぐりが真実になるとか,そういうのは,なんか悲しいので,ないことを祈る.あの辺,歩きづらくなるし.

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追記(20160603):無事に保護されたニュースにびっくりしたけれど,とりあえず,良かったね,と.駒ヶ岳演習場に続く林道は,基本的に一般人の立ち入りを制限しているはずだから,あの初動で「山菜採り」と嘘をついたおっさんのこと,立ち入り禁止の林道に進入して,放置したことがバレるのを避けたパターンで,捜査の途中から「駒ヶ岳中腹」とか言い出したのは……というのは下衆の勘ぐりになるので,やめます.

が通る

「はいからさんが通る」の映画とか普通に楽しみすぎる.ただ,懸念しているのは,今風の絵柄になってしまうのではないかということ.流石に,時代遅れと言われても仕方がない,いかにも昔の少女漫画絵というわけにはいかないのだろうけれど,せめて,最近の大和和紀先生の絵柄に近づけるとか,そのくらいの努力はして欲しいと思っているんだけれど(それはそれで,酒乱ギャグシーンとかが違和感ありそうだけれど),ネットニュースに出てきたキービジュアルの雰囲気が,いかにもアニメ塗りで,いかにも悪いほうに今風になっている雰囲気が感じられて,なんとも言えない.

劇場版なんだから,せめて,アニメ塗りはやめないか,と.水彩風とかならあり.

あと,あらすじだけにすると,かなり美しい話ではあるけれど,基本的にドタバタコメディーという路線を忘れて,ストーリーのほうを重視するのもやめて欲しいなぁ.

声優については,忍とか青江(とか蘭丸)の声を当てそうな人は何人か思いつくけれど(割と一昔前のベタな配役のほうがいい気がする),紅緒の声は,ぴったりくる声優が思いつかない.悠木碧はありそうだし,いい役者だからそれなりに演じてくれる気がするけれど,イメージが合うかというと疑問.沢城とかいうカス役者だったら見ない.

2016年5月30日月曜日

国民的番組

なんつーか,「あ〜あ.やっちゃった」という感じ.

まぁ,立川流ということはないと思っていたけれど,林家をさらに増やすとは思わなかった.個人的には,その世代だったら花緑師匠が適任だったんじゃないかと.びっくりすることに,いま,柳家いないからね.他にもこの世代だと,古今亭菊之丞師匠でも,他とキャラがかぶらない上品なキャラとかでいけたかな,とかも思う.

まぁ,少なくとも,当代三平はない.終身名誉こぶ平のほうがマシなレベル.

メガネを置く,という行為

美術館の床にメガネを置いておいたら,人だかりができて,観客の議論が始まったという話.

http://jin115.com/archives/52132943.html

もちろん,バカバカしいお笑い草な話題ではあるんだけれど,果たして,美術館という場に,いたずらでメガネを放置するという行為が芸術ではないのか,という点が気になる.

なんの意図もなく,わざわざ,美術館の床にメガネを置くなんて行為はできないし,それをなんの疑問もなく芸術作品だと思い込んで眺める観客を撮影するということは,少なくとも現代のアートの消費者に対する批判的な感情が,仕掛け人の内にあるのは間違いない.それ自体が,いたずらそのものを一連の意味のある行為にしてしまっている(そこまでを仕掛け人が考えているのかどうかはともかくとして).

なんというか,いたずらに引っかかった人は,まぁ,世界中から笑われるのかもしれないけれど,引っかかった人の写真を眺めて,「馬鹿だなぁ」と笑っている人も含めて,仕掛け人的には「してやったり」と思われている気がして,素直に笑えないのでした.

2016年5月25日水曜日

科学はある種のロマンを駆逐するけれど,科学もロマンだよねという話?

ニューネッシーというものがある.なんでこんな古いネタを持ち出すかというと,最近,そんな過去の記事を回顧したうえに,ニューネッシーみたいな UMA に想いを馳せるのは素敵だねという内容の記事が朝日新聞に掲載されていたからです.もっというと,こんなバカネタ読み物記事に「科学的な事実を無視している!」みたいなマジレスをしているかわいそうな人を見たからです.

まぁ,マジレスした人と同じように「あの,ウバザメね」と一言で済んでしまう話なんだけれど,それは非常に面白みがないし,たぶん,意味もない.

確かに,アレ自体は,得られている科学的なデータに基づけば,ウバザメの死体と結論づけるだけの物体なんだけれど,アレを読み物のネタとしてイジることに,科学的にウバザメという結論が出ていることはどの程度意味があるだろうということ.

別な話をしましょう.

恋人と二人で,空の星座を指でなぞりながらいい雰囲気になっているカップルの隣で,星を眺めながら,星座っていっているけれど地球から見上げる天球面に並んだ星をつなげて人が勝手に絵を描いているだけで,三次元的に見ると全然バラバラなんだという内容を本を読んで知っているおっさんがいたとして,それが二人のロマンスを変えますかということ.

もっと言えば,かわいい女の子が,「血液型占いだと私とあなたは相性がいいみたい」って話をしてきたときに,「血液型と性格に相関はない」という返事をしますかということ.

科学とか理系とかって,そういうイメージを持たれているし,事実として,そういうレベルの低い発想をする人もいなくはないんだけれど,人間的な感情とか,別な側面で眺めたときに面白くなるものを,科学なんてたったひとつの基準だけで何から何まで否定する必要はないと思うわけです.

最後に,タイトルへの返答.

「いや,ムーにマジレスして,何が楽しいのよって話ですよ」

※なお,僕はオカルトマニアです.

わけがわからない

自分(研究者)が書いた研究に関する書類を,自分(企画担当)がセッティングした所内検討会にかけ,その課題に対して自分(検討人員)がコメントして,自分(研究者)が修正して,自分(書類事務担当)に提出して,自分(書類事務担当)が書類不備のチェックをして,自分(外部機関窓口)が書類の送り先に書類を送付する.そんな最近のわたくし.

寺田寅彦はそんなこと言ってないって中谷宇吉郎先生の本に書いてた

よく,名言だと言われる言葉に「災害は忘れた頃にやってくる」というものがある.まぁ,名言かどうかは置いておいて,「常に災害に備えねばならない」というニュアンスの警句として,大事な言葉ではある.

この言葉,正確に表現するのなら,「他人の不幸(災害)が来るとこの言葉をみんなが思い出す」という感じ.なお,自分の不幸だったら時すでに遅し.

年がら年中,災害のことを考えていないといけない立場の人間としては,今回の熊本地震のような大きな災害を機に,ほんの少しだけでも,活断層とか直下型地震というものについて見識を深めようとする人がいることが救いである反面,寄せられる疑問の程度の低さに,誰にとっても等しく起こりうる災害に対する認知度がものすごく低いという事実に危機感を覚えるのでした.

最近,そういう仕事をしているから数える機会があったのだけれど(資料編纂室的な左遷?),自分の勤め先にくる取材の件数を遡ると,2011 年に(当然のことながら)巨大なピークがあった後,潮が引くように取材件数は減り,その後,小さな地質災害のあるたびに少しだけ取材がくる状態に推移し,東北の震災からだいぶ時が経ち,目立った災害がなかった去年はものすごく取材件数が減っていた.しかし,今年は,この一ヶ月で,去年の取材件数を超える勢いになっている.

普段は,気にも留めないし,当然,お金を出そうなんて微塵も思われないうえに各地で研究機関が廃止に追い込まれている研究分野なのに,いざ,災害が起こると「なんでこの災害が予知できなかった(無理です)」とか「なんでこの研究をしていないんだ(やろうとしても平時だとみんな忘れていて予算がつかないからです)」とか「なんでこんなに研究が進んでいないのだ(みんなが応援しないからです)」とか「税金の無駄遣い(民意とやらで予算がどんどんカットされているので,そんなにお金使っていません)」とか叩かれるという悲しい世界.

でも,災害が起こるとみんなが思い出してくれて,研究予算もつくという,他人の不幸で飯を食う的な悲しさも感じつつ,明日も仕事に向かうのです.

やるせない

某研究不正芸人の本が 25 万部も売れたという某記事中の記載を見て,その分の金や関心がサイエンスに回ったらどれだけ多くの価値のある研究が生まれるか,と考えると,非常に遣る瀬ない.

ところで,瀬戸内晴美が,煩悩の塊のキチガイ色ボケババアだって,認識は万人に共通のものでいいんだよね?それと研究不正女芸人のセット販売とかって,もはや,そんじょそこらのゲスなタブロイド系雑誌よりも低俗ななにものかだな.

2016年5月13日金曜日

訃報に思う

だいたい,訃報に接すると「また,大御所が……」とか「昭和が遠くなるな」という気分になるけれど,基本的に,死ぬ人は高齢者で,死んだことが大々的に報道される人は,著名人なんだから,そりゃ,大抵の場合は,大御所が亡くなったニュースになるよね,と思い直した.

どうでもいいことなんだけれど,僕の見たときに 2 つの訃報に挟まれて,某元プロボクサーの急性アル中のニュースがあって,思わず,「あー,死んだんだ」としばらく勘違いしていた.

2016年5月12日木曜日

憲法 9 条を誇るという恥

昔から疑問なのは,憲法 9 条を誇りだと思うという風潮.まぁ,どっかの活動的(笑)主婦が始めた,ノーベル平和賞云々の話に関してなんだけれど…….

(いうまでもなく,僕は,右よりだし,改憲論者(9 条だけのことじゃなく)なんだけれど,そういう観点からではなく,単純に疑問に思うということ)

この条文の成立過程はどうあれ,基本的に,あの条文って「世界に大きな戦禍を引き起こして,自分たちも大きな被害を受けた」ということに対する,自分たちへの枷とか戒めでしょ?

平和主義や戦争の放棄は,非常に崇高な理念だけれど(これはラジカルな僕でも認める),だからといって,重大な過去への戒めとして作った条文を自慢するというのは,かなり恥ずべきことではないかと思う.

別段,平和憲法がない国が戦争ばっかりしているわけでもなく,逆に日本が,いわゆる終戦以降,戦争をしてこなかった歴史は,憲法があったことが理由ではないだろう.そもそも,戦争の危機に対して "憲法が" 歯止めになった事例なんて存在するのだろうか?

そして,日本が戦争しないというだけの宣言は,究極的に自己中心な価値観で,世界の平和に積極的にはなにも貢献していない,少なくとも他国に誇れることではないという,いわゆる「日本スゲー」系のバカバカしいやつでしかないという,非常に可哀想なオチ.

絶対ないとは言わないけどさ

とある中学生くらいの少年が,奇抜な発想で,しかも,Google Earth を使ってマヤの遺跡を発見したというニュースが全世界を駆け回ったかと思ったら,一瞬で学識者からマジレスを食らって消え失せたという話.

今回のニュースの場合,一報を聞いた時点でリモートセンシングを使って遺跡を探すという学術分野があることを知っていたので(私はリモセンに近しい分野の人なので),瞬時にガセネタ(または少年の錯誤)と判断できましたが,まぁ,騙される人は多かったようで(ニュースの影響力って偉大ね),いつものお決まりの「学者はバカか?」とか「金返せ!」のシュプレッヒコールを方々で見かけました.まぁ,それはどうでもいいんだけれど.

この件で,僕がひとつだけ言いたいのは,数十年前ならいざ知らず,基本的に,どんな分野でも素人が急に最先端の学問領域に新しい風とともに切り込んでくるなんてことはないですよ,ということ.

普通に生きている人には想像もつかないくらい頭のいい人(たぶん,大多数の人は生まれてから死ぬまで一度も会うことがないレベルの人たち.仮に会っていたとしても,その頭の良さを認識できないようなレベルの人たち)が集まって,特定の狭い分野の研究に色々な手法をもって取り組んでいるのが研究の世界です.よく,「素人の柔軟な発想が〜」みたいな言われ方をするけれど,その瞬間までどの学問分野にも属さずに素人でいられる程度の脳みその人に学者より柔軟な発想ができるとは到底思えません.

子供が頑張ったんだから,否定するなみたいな言説も見かけたけれど,研究の世界は,批判や論争を乗り越えてこそ,新たな地平に向かえるものなので,かの少年が,(今回の失敗にめげずに)その熱意を燃やしてくれることを願うからこそ,マジレスが彼には必要だと,僕は思います.

そもそも,この少年の説が世界中に晒されるより前に,この少年の錯誤に気付いている大人はいたはずで,この少年を甘やかして学術的批判を加えなかったことが今回の事態を招いているのは明らかなので,否定されるべきは少年の説への学術的批判を非難する人たちの方だ(そもそも,二年くらい前からの話みたいなので).

2016年5月11日水曜日

県の石

日本地質学会が「都道府県の岩石・鉱物・化石(総称として「県の石」)」を発表した.

ちなみに,こちら→ http://www.geosociety.jp/name/category0022.html

なお,私は諸々の事情があって,北海道の石については制定の過程にかなり関わっているので,この件について積極的にぶーたれられる立場ではないです.普段なら,こういうのにボロクソ言うのにね.

まぁ,各地の石を眺めてみても,冒険するということもなく無難なところに収まっているんじゃないかと思うけれど,当然,「なんでこの石じゃないの?」という意見が出てくることもあるだろうが,それはそれ,各都道府県で岩石・鉱物・化石をひとつずつしか選べない以上,ほとんどの石に光が当たらないこともやむなかろう.

(それでも,広大な面積を有する北海道については,複数の石を挙げてもいいんじゃないかという意見はあった.でも,化石は,募集時の地質学会による印象操作のせいで,そもそも候補がほとんど無かったのよね→ 募集開始当時の blog 記事 [鉱物以外は的中でした])

ちなみに,(いつ出版されるかは知らないが)この県の石+今回は選考に漏れたけれど惜しかった石の本が出版される予定だそうで,今回の選定に不満がある方は,是非,そちらも期待していてください(ステマ).

2016年4月24日日曜日

これは怒っていいと思う

どこかで「科学者が今回の地震についてわからないと発言していて,説明を放棄していたけれど,なんのために存在しているんだ.金返せ(要約)」というような発言を見かけた.そして,それが,大層支持を集めていた.

こういうことを考える人は,科学者が「すでに説明可能なわかっていること」を研究しているとでも思っているんだろうか?すでにわかっていることを説明するのが仕事な人だと思っているのだろうか?謎だ.そもそも,わかっていることを説明する人に莫大な研究費を与えるほうが無駄じゃないかw

科学者は,わからないことを研究するのが仕事だし,何にもわからないことから,ほんの少しだけわかったことを世界に還元するのが仕事だ.そこに科学者が存在しているということは,そのことについてほとんど何もわかっていないことを示す.そして,科学者は,世界のありとあらゆる事象に取り組んでいる.そもそも,世界はわからないことで満ちている.

少なくとも,地震について言えば,学問として地震学が成立して,せいぜい,100 年.その間に,科学者が知見を集めることができた地震が,この地球で起きうる様々な仕組みによる地震の何%なのかすら,我々は知り得ない.というか,完全に想定したメカニズム通りに起こった地震なんて,過去にあるのだろうか?

いまの学生

自分の母校(大学)の敷地内にえぐりこむような形で配置されている職場に通っていると,どうしても,自分の後輩にあたる子供達の様々な姿が目に入ってしまう.それは,楽しいことでもあり,懐かしさと郷愁で物悲しい気分になることでもある.僕は,年を取ってしまった……(といいつつ,基本的に 10 年以上,大学に所属していて,すぐに現職場 [not 大学] に入ったので高校卒業以来,大学から物理的に離れたことはないのだけれど).

先日,ふとしたことで,新入生向けの某大学(と伏せる意味があるとは思えないけれど)紹介パンフレットみたいなものを眺める機会があって,なんか,隔世を感じてしまった.

もちろん,校風とか伝統とか変わっていない部分はあるんだけれど,根本的なところで,僕らの頃と「大学生像」が大きく変わっているのを感じた.

僕らの大学生初年度の頃は,まだ,意識が高くて(系じゃないよ),それなりにリアルを充実させているような大学生というのが理想像として存在した気がする(今風に言えば,みんな意識が高いリア充に恥ずかしげもなくなりたがっていたということ.そして,彼女が欲しかったし,セックスがしたかった.それが恥ずかしいことではなかった).

級友と図書館で試験勉強するのとか(その時に頑張って女の子のグループを誘ったりして.特定の教科に強いやつとかがいるといい口実になったw),大学生になったからというきっかけで哲学書を持ち歩いたりとか,わからなくてもそういう本を乱読したりとか(そんな乱読が未だに教養として生きていたりする),ある日唐突に特定の学問にのめり込んで勉強しまくったり,いかにその学問が面白いか語りあったり,夜通し酒(もちろん,某大生なので SS)を飲んで(その頃はまだ飲んでた.その頃のやらかしのせいで今は一切飲まない.もちろん,元々,強くはなかったけれど)男友達と下らないエロ話から学問のこと,社会のことまで議論したりして朝を迎えてしまうとか,下らないことで殴り合いの喧嘩をしたのはいいけれど,数日経つとなんであんなにいがみあったのか忘れて,また仲直りの酒を飲んだりとか,バイトで金を稼いで友達とすすきのに繰り出したりだとか(色んな意味で),適度にサークルで遊んだりだとか,合コンに繰り出したりだとか,そういう姿が「大学生像」として確固なものだった.その一方で,サークルにのめり込んで落第したりとか,すごいマニアックなことに偏執的にハマってみたりだとか,ふらっと授業を抜け出して(そこまでは恥ずかしくて言えなかったけれど,結局のところ「自分探しの」)旅に出てみたりだとか,そういう大学生像もあったり.ともかく,そのころの僕らに共通していたのは,リアルにそこにいる・あること以外には大きな価値を感じないというのが大学生の基本的な価値観だったということだと思う(もちろん,今風のオタクとかアキバ文化というのは,僕くらいの世代が奔りではあって,そういう人たちもいたけれど,もっと謙虚だったというか,それはそれ,リアルはリアルと使い分けるのが最低限の礼儀だった気がする).

因みに,インターネットは,ちょうど,テキストサイト全盛期で(少し後にフラッシュ黄金時代),時々,話題になることはあったけれど,決して日常的話題のメインストリームじゃなかった.ただ,さるさる日記とか,日記系のサービスがあって,みんなそんなところで日記を書いたりとか,HTML 手打ちで個人サイトを持って,リンクし合うなんていう,今でいう SNS の手工業版みたいなことをやっていた.僕も HTML 手打ちの個人サイトとか持ってた.今も,その当時のものがネットの海のどこかに漂っているけれど.

そんなのも,もう,15 年くらい前の話だ…….

いいとか悪いとかではなく,最近の大学生像は,とにかく 2ch 的なものに代表されるインターネットの世界や SNS が練り上げてきた価値観が,すべての前提とされていて(僕の頃は 2ch なんてできたばっかりだった.SNS やブログに至っては存在すらしていなかった),オタク(と称するただのアニメ視聴者)とかぼっちとか,そういうものを肯定的に……というか,一定の地位を持ったキャラクターとして認識していたりして(この辺の感覚が,僕らの世代が感じるぼっち感とすごくかけ離れている.一定の地位があったら,ぼっちじゃないじゃん,とか),逆に,僕らの頃の理想像としてあった「リアルを充実させる」ことに憧れたり,そのために努力したりするのは格好悪いみたいな風潮があるみたいだ(意識高い系の揶揄とか.「系」だったら叩いていい,みたいな風潮も僕はそんなに好きではない).

もちろん,僕らの世代も,もっと上の世代から,学生の姿が変わった,という言われ方をしてきたし,変わることが悪いなんてことは絶対にないけれど,十数歳の年の差で,もう,価値観が相入れなくなってしまっているという事実が,自分の老いを認めるようで悲しいのだ.

なんか,書きながら,猛烈に大学の教養時代のことを思い出してしまって,異常に長くなってしまった.

2016年4月23日土曜日

巡って元に戻る

今回の熊本地震に際して,Ziploc でご飯が炊けるよという話が話題になった.その時点では,「( ´_ゝ`) フーン」と,なんの興味もなかったんだけれど,その後,Ziploc は公式で湯煎に使うなと言及されているというツッコミが入った段階で(しかも,Ziploc の替わりに使えるとしてもっと熱に脆弱なものを勧めるというオチもついている),非常時になんとかして米を炊くという発想の紹介に対してなに寝ぼけたこと言ってるんだろうと,一瞬,イラついてしまったが,冷静に考えて,湯煎に使っている火にかけられる鍋(容器)と米を炊く綺麗な水があるなら,そもそも,湯煎+Ziploc で米を炊く必要がないことに気付いた.

2016年4月19日火曜日

届かなくても

先の震災を経験したということだけを後ろ盾に言いたいことを言う.

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「災害時は平時じゃない」

残念ながら災害時は平時じゃない.巻き込まれた以上は,もう,覚悟を決めるしかない.正常化バイアスという言葉は聞いたことがあると思うけれど,自分がいま日常ではない空間にいるということを意識的に認識するだけでも,ある程度,精神的な安定は保てるはず.ほんの少しの心の余裕というか準備が,それなりに大きい判断の分かれ道になることもある.

「助けられすぎないでほしい」

これは,あくまでいろいろ(衣食住環境や体力など)余裕がある人に対しての話だけれど,自分で何かができる人は,何もかも助けられる完全なる被災者にならないようにしてほしい.余裕がある人が,少しだけ頑張ることで,幾らかの弱者は救われるはず.

ただし,絶対に無理はしないこと.少し頑張るだけでいい.


「SNS やインターネットの情報は,被災地では何の役にも立たない.というか,そもそもアクセスできない」

もちろん,SNS の効能をすべて否定するわけではないけれど,残念ながら,基本的には気を紛らわす以上の役目なんてなかった.

SNS にアクセスできる状態の人は,被災した全人口に対してかなり少ない.そして,膨大な情報の渦から,ただでさえ真偽のわからない情報が錯綜するインターネットの世界で,的確に正確な情報を見つけることができるほど余裕がある人は,もっとわずかだ.いないと言ってもいいかもしれない.

だから,はっきりという.例え,その時点で正確な情報を拡散しているつもりでも,被災地にとってはほとんど意味がない.そもそも,ドンピシャで価値がある情報なんて,そうそうなかった.

ただし,単純なコミュニケーションツールとして,心の支えのようなものにはなるから,被災した人が見ているつもりで書くならば,ただ穏やかな,日常的なつぶやきをしていてほしい.正直,目の前に現実があるときに,仮想のコミュニケーションツール上でも悲惨な現状なんて聞かされたくないものだ.

「感情はエネルギーを消耗する」

感情を抑えろというのは無茶な話だけれど,感情はエネルギーを消耗する.悲しみとか,そういう,抑えることができない感情はどうしようもないかもしれないけれど,非日常にいるという事実を自分で意識することで抑えられるような類の怒りとか,そういう不毛な感情は抑えたほうがいい.この辺ははじめの災害は平時じゃないというところとも一緒.

「連む人は考えよう」

非日常だからこそ冷徹に連む人を選ぼう.それ以上は言わないけれど,日常に戻ったときに人間関係が壊れたとしても,自分に害があると判断できる人とは絶対に一緒に行動しないことが吉.

逆に,協力できる人とは積極的に協力したほうがいい.一人でできないことのなかに,複数人なら対処できることはいっぱいある.

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自分の被災体験は,家が壊れたわけでも(家のなかも学校の居室もめちゃくちゃで,損害はそれなりに出たけれど),津波を被ったわけでもないけれど,インフラはボンベ配給式だったプロパンガス以外全滅(電気は 3 日目位で復旧した).近所には崩壊したマンション,家屋がいくつか(同一地域内にはアパートからの退去命令が出て避難所生活の後輩もいた),食料・水の供給は,補給所での配給も先が見えない状況(ただし,いろいろ手を尽くして自分用に一週間分くらい食材は確保できていた.水はなかったけれど),車は運良くガソリンを入れた直後で使える状態,という,他と比べるとイージーモードだったけれども,"被災地" がどういうところかが分かる程度の環境にいたから,まぁ,このくらい言ってもいいと思っている.

いま,なんの被害も受けていない人にできることは,被災地に金を送ることくらいなので,そのほかの余計なこと(ネット上のデマ退治だとか,前震・本震の定義問題だとか,政権批判だとか,野党批判だとか,地震の名称問題だとか,そういう,この災害に関わっているつもりになれるようなだけでなんの役にも立たない下らないこと)をする手を一旦止めて,金銭的な援助をしてほしいと思います.お金以外は,大量の食料や生理・医療用品を企業の物流レベルで用意できないのであれば,基本的に役に立たないのも忘れないでくださいね.

以上,取り急ぎ.

2016年4月13日水曜日

この支配からの卒業からの卒業

ニコニコ動画が高校を作ったとかなんとか.そして,そこに多数の若者が集ったそうな.

別に,それ自体はどうでもいいし,高校なんて自分には全く縁のない世界なので,そこに通う生徒も,作った人達も頑張ってくださいってだけの話なんだけれど,ニュースそのものに強烈な違和感がある.その高校のウリは自由であることだそうで,学生の個性を尊重して,学生のやりたいことをやりたいようにやってもらうことだそうな(普通じゃないこと云々は壮大なギャグだとして).まぁ,実際どうなるかは知らないけれど,言葉自体は魅力的なものだし,(既に大人になってしまった人間としては)若者の自己実現を応援してやりたいという気持ちも分からないわけではないのだ.

しかし,ひとつだけ気になるのが,通っている生徒は,「大人が用意した自由という名前の箱」に入ることに,抵抗とか違和感とかがないのかということだ.

いや,大人が用意した箱ということにだけ心理的な抵抗を感じて意味のない無駄な反発をするよりも,セッティングされた環境を享受して利用し尽くす生き方のほうがクレバーなのかもしれないけどさ.

ひとつだけ言えるのは,別にその高校に行くことが自由を保障するんじゃなくて,結局,自分が自分に対して自由かどうかが自分の人生に自由を感じられるかどうかの全てなのだということ.場や箱が重要ではないなんて,大人になった僕には言えないけれど,場や箱が如何に用意されていても,結局は,自己実現の問題なので,逆に,恵まれた環境を用意されているからこそ,自分を見失わずに生きられるかどうかが強く問われるんじゃないかと思ったり.

少なくとも僕は,やりたいことしかやらずに自由に生きてこれたけれど(自分の能力が足りなくて諦めたことは多少あるけれど),それは結局,僕にそれを許すだけの能力があったからだというだけのこと.環境や運が大事じゃないとは絶対に言えないけれど,そもそもの能力は前提なのだ.

まぁ,今の若者にとっての大人って敵や嫌悪すべき支配の象徴とかじゃないのかもしれないという事実に,おっさんは驚いてしまったよ,と要約できるだけのことなのかもしれない.そういう意味で,社会は多分,尾崎から卒業してしまったのだろう.というか,尾崎たちが大人になったというか.

2016年4月10日日曜日

誰にも理解されないようなことを敢えていう

某水平線英語教科書のエレン先生が,今風の可愛らしい絵柄だったせいで大人気になっているという記事を見た.まぁ,可愛らしい絵柄だとは思うし,こういう絵柄が教科書に採用されるようになったという,時代の変化を感じれば済む話なんだけれど,なんか違うよね,という感覚が拭えない.

可愛く描かれているものをみて可愛いと思うのは当たり前のことであって,それは,なんか,いわゆるキャラ萌えとは違うよね,ということ.むしろ,いわゆる,教科書系イラストの中にある妙な作家のフェチズムみたいなものを抽出して反応するっていうのが,大事なんじゃないのか,とかそんなことを思うのでした.

余談だけれど,昔の New Horizon にいた Sanae ってキャラに友人(男)が似ていて,そいつのあだ名が一時期,さなえになっていたなぁ,というどうでもいいことを思い出した.

2016年3月30日水曜日

責任の所在

某中学生の監禁事件のニュースを見ていて,容疑者の通っていた大学が謝罪をしたという記事を見かけたときに思い出した,某先生に聞いた昔話.

某大学でちょっとした学生の不祥事があって,それに関する調査やら謝罪やらが一段落ついたころに,その大学の,よりによって某先生がいた学部の学生が殺人事件を起こしたことがあったそう.そのとき,その先生は学務を担当していたそうで,直前の不祥事の対応のこともあって,ニュースをみてすぐ顔面蒼白で学部長に相談に行ったら,「人を殺すことについての教育に大学の責任はない」と一言言われて,以降,落ち着いて粛々と除籍の手続きを行ったとのこと.

まぁ,そりゃそうだよね,という話なんだけれど,そういう意味で,千葉大には,未成年を監禁するということについての教育の責任なんてないと思うので,謝罪なんてする必要ないよね,ということ.

ただし,卒業取り消しを批判している人が一定数いるようだけれど(学業を修めた事実と在学中の犯罪は関係ないという理屈にもならない妄言),この事件の発覚が一ヶ月前だったら,当然,除籍なわけで(これを批判する人はいないはず),在学中の犯罪が卒業の数日後に発覚した以上,卒業取り消しのうえ除籍という処置は当然だと思います.

春の気配

気温が緩み,雪が溶け,窪んだ草地にやたらと澄んだ水たまりができ,積まれた雪が溶けて冬の間に累積したチリが濃集して黒ずみ,また,溶けた雪の下から去年の枯葉が舞い,冷凍保存されていた犬のフンなども顔を出す.街の中を歩いていると,大型の家具が粗大ゴミとして並んでいる一方で,まだ,街に慣れていない様子の若者が右往左往している.

そんな,春の気配.

2016年3月26日土曜日

心の底からつまらない

AI の書いた小説が星新一賞の一次選考を通過した話とか,Microsoft の AI が独裁者の礼賛をはじめたり暴言を吐き始めたりしたから運用を停止したという話を聞いて,心の底からつまらないと思った.

人工知能を作る上での研究者側の心意気の問題なんだろうけれど,人間が考えるような人間の価値観で判断できる人間らしいものを作って,何が楽しいのか?

せっかく,人工知能を作るのに,人間の出す結論と似たり寄ったりになるようにチューニングをしたんじゃ,ただの計算の早い人間以外の何物でもなくて,なんの面白みもない.

AI 小説の例で言えば,人間の審査員が「理解出来る」ような文章を吐き出すだけじゃ,そもそも,人工知能に小説を書かせる意味がない.むしろ,何が何だかわからない,わけのわからないけれど,その人工知能のなかでだけはロジックが完結しているような,めちゃくちゃなものを吐き出せるということが重要なんじゃないの?

(※AI 小説の件について,各プロジェクトによって作業内容は違えど大部分が人間による仕事であるという知識は持っていますので,ツッコミはいりません)

2016年3月13日日曜日

電子楽器の鎮魂歌は至極原始的な物理的破壊にあって

キース・エマーソンが一発の銃弾でぶっ壊れてしまった.確定した情報ではないらしいけれど,ほぼ,自殺ということらしい.なんてことだ.なんてことだ…….

電子鍵盤プレーヤーのなかでは一番好きな人だった.本当に悲しい.もう,語る言葉が出てこない.悲しい.

2016年3月11日金曜日

人間の感覚(笑)

囲碁でトッププロがコンピューターに負けたという話.

囲碁は,ゲームのかなり早い段階で人間の脳でロジカルに考えられる範囲を超えて,感覚の世界に入るからこそ,それは人間にしか理解できない云々という話を聞いたことがある.この話を聞いて,なんというか,人間の感覚というものをまるで天啓か何かのように考えているようで,「お前は何を言っているんだ?」としか思えなかったし,脳という貧弱な計算機の限界を「感覚」なんて言葉でごまかしていることが,結局,考えの及ぶ範囲の定石と棋譜のうえで有利になった経験則の積み重ねに過ぎず,計算量がものすごい小さい,むしろ,生物の脳の貧弱さの象徴じゃないかと思っていた(多くの人は,これこそが人間の脳の優位性だとか思っていたようだけれど).

今回,コンピュータの打った棋譜が,人間のトッププロに理解できない場面が多々あった上で,かつ,人間が完敗したという事実は,感覚というのが過去の棋譜の上で明文化されていない経験則の積み重ねに過ぎないということを喝破したので非常に痛快だった.これは,素晴らしい成果だと思う.

今回のコンピュータの思考プログラムは,決して,最適解だとは思わないが(ニュースを読みかじっただけなので,どういうロジックで思考の分岐の枝を端折ったのかもよくわかっていないレベルです),特定のロジックに則って,(もしかしたらファジーな部分もあるのかもしれないけれど)計算が追尾可能な状態で生み出された,「人間に理解できない」手が存在するということが非常に面白い.

むかし,分類ということに関して似たようなことを考えたことがあって,三次元形態モデルを大量にぶち込んだうえで,非常に単純な志向性をもたせた分類プログラムを組んだら,どのくらい人間の感覚に基づく分類と乖離するか,という思考実験をしたことがあった.このとき,コンピュータの吐き出した分類が,人間が「感覚」で作った自然分類とどう変わるかというところに,分類 "学" の先が見えてくるんじゃないかという話とかいろいろ考えていた(し,今も考えている)んだけれど,まぁ,それはまた別の話.長くなるし.

愚痴ぐち

異動やだー.マネジメントとかしたくなーい.別に,偉くなるためのラインとか乗りたくなーい.そもそも,偉くなったら自由が利かなくなるから偉くなりたくなーい.研究だけしていたーい.

……という愚痴をほとんど誰も見ていないけれど,誰でも見られる場所に吐いておく.2 年間(労使協定)の人身御供だ…….基本的にそういうの向いてないと思うんだけどな……

2016年3月10日木曜日

単純な話

なんかヒット作が出ると,分析と称したまわりっくどい文章が出回るのが,最近のサブカル界隈だけれど,最近,その層はおそ松さんにご熱心な模様.

まぁ,最近,大ヒットといえるようなアニメがない中で,頭一つ抜けている感がある.年寄りの僕から見ると,少し前の大ヒットで思いつくのは「SHIROBAKO」あたりだけれど,これがちょうど一年前の作品だ.毎年,4 クール,200 本以上のアニメが作られる中で,記憶に残るアニメがこれだけ少ないと,まぁ,それに群がる人も多かろうと思う.

で,まぁ,おそ松さん.

個人的には,別段,原作・過去のアニメに思い入れなんぞはないし,下らなくて,肩の力を抜いて見られて,適度に笑えるので,毎週,楽しみにしている感じだけれど,これが受けている理由に関して,的を得た論評を見たことがない.

たとえ,低レベルで,シモが多くて,お子様向けとはいっても,単純に「笑える」レベルのギャグを提供できているコンテンツであるという点を無視して,どうでもいい要素にばっかり注目する論評が多いのかが疑問だ.ギャグアニメって下らなかろうが,下劣だろうが,シモだろうが,なんだろうが,大勢(しかも,視聴者って子供が多いの)を笑わせれば勝ちだってことなのさ(いろいろ技巧をつくしたお笑いって笑う人は笑わせられても,笑わせる人数は稼げないのよ).それに加えて,基本的に,声優の質も高いし,絵も綺麗だし,少し褪せた雰囲気の色使いも悪くないし,細部まで絵・デザインのノリに統一感があって,音楽はセンスがいい,という枝葉の大事なところは締めているアニメな印象.

まぁ,ここまで丁寧に作ってあれば,そりゃ,売れるよ,という単純な話.

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これが「出来ている!」って言い張っていたのに売れなかった多数のアニメは,大概,製作に大きな権力を振るえる人の独り善がりになっている例が多いよね.どの作品とか,そういうことは長くなるから言わないけれど.

2016年3月4日金曜日

個別事例の不毛

どこかには不幸な人がいて,全員が一定の幸福を享受できないことは,ユートピアから遠く,社会全体にとっても不幸であることは,一応,前提として認めよう,という前書きを置いてから.

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特定断面を切り取った個別事例が不幸であったとしても,残念ながら,そのことをもって,社会的・政治的な問題にすることはできないことがわからない人が多いらしい.そして,それは,その特定断面・個別事例の数をたくさん集めたとしても,少なくとも国民の過半数とか集まらない限り,実は,そんなに影響力としては変わらない(し,そんな大規模な不幸はとっくに改善されている).

そういう点で,特定断面の個別事例は不毛.

そういう事例をたくさんあげることに満足する人は,全くもって,政治に参加していないのと一緒で,そもそも,政治というものに対する知識に欠けすぎている.ハッキリ言ってお花畑だ.

とりあえず,そこにある特定断面・個別事例の不幸を政治的な問題にしたいのであれば,(叶うかどうかはともかくとして)取るべき手続きについて学んでから行動を始めましょう.その結果が今の,こんなに幸福な社会なのだから.少なくともそれは,匿名の SNS で,個別事例を叫ぶことでも不幸自慢をすることでもないはずです.

まぁ,なんで,全ての人が絶対幸福に至れないのかわからない人は(そんなお花畑の人が本当にいるのかどうかはともかく),功利主義哲学とか学んでみるといいかな.ベンサムからでいいよ.

社会主義者・共産主義者は,帰って,どうぞ.

教育がいかに無駄かという話……かな?

別に教育を否定したいわけではなく,理解力とか記憶力とかそういった問題の話.

なにかの知識不足とか概念(用語)の誤用とかの例があると,識者から「こういった常識になるべき内容は義務教育(または高校)でしっかりと教え込むべきだよね」といった反応が上がることが多いけれど,そういう内容は中学〜高校でしっかり教えられている内容であることがほとんどなのだ.

問題は,中学(または高校)における教育にあるのではなく,定期試験とか受験とか,知識が必要な時期が過ぎるとスッポリと記憶を欠落させてしまうポンコツな脳みそのほう.そうさせない教育をしろ,というかもしれないけれど,それはあまりに無理ムリかたつむりなので,努力目標程度にすべき.

巷のクイズ番組やなんかがほとんど義務教育レベルの問題で構成されていることを考えれば,義務教育程度の内容が一般人の頭から適度に欠落しているバラエティーに丁度いいレベルだということくらいわかりそうなものだけれど,世の中には一度しっかり習ったことは生涯忘れないと思い込んでいる優秀な人がいっぱいいるようで…….

大体の人の脳はポンコツで,自分が興味のない分野における義務教育の必須記憶項目を全部しっかり覚えられている人なんてほぼいません.大なり小なり抜けていくのが当然のことです.たとえば,自分の脳に自信があり,かつ,普段料理をしない人って,義務教育の家庭科で習ったはずの食材ごとの切り方の種類や出汁の取り方を正確に覚えていますか?理系の人は,義務教育〜高校程度の社会科目で習った内容,しっかり全部覚えていますか?ビルトインスタビライザーとか急に言われて説明できますか?

そういう「人間っておバカさん」という,重大な事実を忘れてしまうのは,義務教育の内容を忘れてしまうより,相当に害悪だと思うのです.

2016年2月18日木曜日

ずっと前から突っ込みたかったこと

大阪弁あるあるは,方言の単語を標準語に置き換えると,普通に,標準語でも同じことが大部分(たとえば「なんや」のコピペなら「なんだ」に置き換えれば関東でもよくみる光景).

女あるあるとかま〜ん(笑)ネタは,性別を置き換えても大抵通じる.というか,同案で性別入れ替えただけのネタとか普通に見かける.たとえば,自動車バッテリーコピペだって,あれ自体は,男女入れ替えても普通にある光景で,むしろ,それをジョークにした時の受け取る側のジェンダーの問題.

国家・国民性ジョークとか県民性とかも,だいたい,その類.

かように,ある特定の集団に固有の性質なんてものはないのでした.ちょっとしたジョークで言っている分にはいいんだけれどね.

2016年2月12日金曜日

耐え難い重さなのか軽さなのか(または,キモい自分語り)

(だいぶ前に書きかけたのを再編.ひとつ前の記事を受けて)

むかしから,あんまりとんがった生き方はしてこなかったつもりではあるが,やりたくないことはしてこなかったし,やりたいことだけをして生きてきた.その結果,普通に高校・大学を出て就職したような人が見られない世界やものを見てきたり,体験しないようなことも体験してきたが,当事者意識として,自分は普通の人間であるつもりだった.

実際,やりたいことばかりをやって,やりたくないことをできるだけ避けるという生き方は,まさに凡庸そのものだったわけだけれど,単純にこの年まで,それをやってこられたのは,ひとえに運がよかったのだと思っている.まぁ,親が,一般的にみて(子供二人を大学に入れて,かつ,半ニートの院生一人を養える程度に)裕福であり,子供を放任主義で育ててくれ,必要な援助をしてくれたという面には感謝している(が,それもまた,運のひとつ).逆に,自力でやってきた感はあんまり持っていない.

そんなわけで,僕は,結構,多くの "ふつーのひと" が果たしてくるべき義務を放逐して生きてきた気もしている(とはいえ,最低限はこなしたとも同時に思っている).挙げたらきりがないけれど,自分の生き方が,顔本なんかでみる高校の同級生たちの生活とはあんまり類似点がないことを気に病んだこともあるのだ(一応,関東圏有数の進学校出身なので,現在,はいそさえてぃーな人たちばかりの同級生を "ふつー" と言えるのかわからないけれど).

まぁ,そんな放蕩息子も,年とともに,そんな "ふつー" に近付いてきたつもりだ.就職もしたし(しかも,さーゔぁんとさーびすもどきに!),人は,本質的に孤独だし自己中心的であるべきという思いも,学生時代においてきてしまって,人並みの恋愛もしたし,その結果に,結婚までしてしまった.

さて,そうなったあとに,いま目の前にあるのは絶望しかない.たぶん,この絶望的な普通さは,今後,生きていくときに,僕にとって非常に容易だ(仕事が単純だとか,そういう意味ではなく,暗中模索することがないという意味で).たぶん,自慢ではなく,僕のいまある能力で計算できない事態に陥ることは,今後,ほとんど起こらないだろうと思う(研究に行き詰らないとか,そういうことではなく,人生において,ということ).次に悩むのは,退職するときと死ぬときくらいかなと思うと,まさに絶望だ(もしかすると子供を作ったら別かもしれないけれど.と書いて,みんなが真面目に子供を作る気持ちがわかった気がする).

いままではやりたいことしかやらないで生きてきたけれど,最近は,この未来永劫に続くように思える絶望という日常は(実際は,自分の寿命程度の 40〜50 年くらい?),果たして,自分がやりたいことなんだろうかという疑問を常に考えている状態で生きている.いっそのこと,全てをフイにするような大逸れたことでもやって,これまで積み重ねてきた全てをキャンセルしてしまおうかと真面目に考えるくらいには絶望的だ.

こんな阿呆みたいな感覚なんて誰にもわかってもらえる必要はないし,例えば,犯罪者になったりとか,そういうことをしたいわけではないけれど,もう,なにも人生にとって意外なことが起きないという漠然とした事実は,死とも釣り合うくらいには自分の中で重いものでもある.

とまぁ,こんなふうに遺書のようなものを web 空間に漂わせておくことで,少なくとも,いつか事故とか病気で若くして死んでも,そんなに「悔いを残して」みたいに思われないかな,とそんな気分で書いてみたのでした.

あ,自殺するほど,たくましい人間ではないんで.僕は.


ふつう

先日,大学兼職場の後輩とタバコ吸いながらくっちゃべっていたことの延長なんだけれど,同世代の人間が,みんな普通に大人や社会人になっていてビビる.

別にいわゆる「普通」という言葉云々の話ではなくて,昔のバカなことやってる時代を知っている人が,目に見える範囲ではバカなことしていないっていうのが,怖い.みんな普通に結婚してるし,みんな普通に仕事してるし,みんな普通に子煩悩になっている(具体例はいくらでもあげられるんだけどこのくらいで).これが,猛烈に怖い.

いや,自分も,普通に結婚しているし,普通(?)に働いているんだけれどさ.

なにしろ,その普通の姿が,まるで自分たちの親世代を見ているかのようだから,本当に恐怖を感じる.だって,みんなの価値観が昔,僕らが見ていた大人そのものなんだもの.それが,とても怖い.みんな「僕ら若者のことなんて『大人はわかってくれない』」って思っていたんじゃなかったの?

「自分はそんな『普通の大人』じゃない」みたいに嘯いている人なんて,もしかすると,みんな自覚もなく「俺(私)は若者の感覚を持っているし,わかってるよ?」っていう,自分たちが若かった頃,一番嫌悪していたクソみたいな大人になっているんだよね.

もちろん,僕自身が,普通に大人になっている(そもそも,僕もすでに 30 をとうに超えている)ことも自覚しているからこそ,漠然とした不安と恐怖に慄いているんだけれど,みんな,この恐怖を感じていないんだろうか?それとも,その恐怖を押し殺して生活しているの?

自由なんてまやかしで,自分を叱ってくれる大人たちからは独立してしまって,もちろん,法律なんて犯すことはできないし,そもそも,生きていかなきゃいけないという現状に身動きが取れないとき,結局,型にはまるのが,結局,一番楽で,その型の中で,ちょっとした模様替えや着替えをすることが自分を個性的に彩る全てになるなんて,もう,絶望しかない.

それを否定するわけでもないし,自ら荒野を歩む気なんてないんだけれど,全部,無かったことにして,例えば,全裸で街の中を駆け抜けるような爽快感を懐かしむくらいは,自分に自由でありたいとは思う(比喩であって性的指向の話ではないよ!).

時期柄

時期柄,世の中には進学に関してのアドバイスとか,研究室選びのアドバイスとか,そういうものが氾濫しているけれど,個人的に,特に研究室選びに悩んでいる学部生くらいにひとつだけアドバイスしておく(あくまで,ある程度,研究志向があって,少なくとも卒論・修論の間は研究というものを体験したい,という程度に真面目な子に向けて書いています).

こういう案件だと,やれ「教授の業績を見たほうがいい」とか,やれ「所属している先輩の話を聞いてみよう」とか,やれ「研究内容が自分のやりたい内容と沿うかよく考えよう」とか,もっともらしい正論を語る人がいるんだけれど,そのルートでは,研究室に(言い方は悪いけれど)奴隷が欲しい人たちによって着飾られた耳障りのいい言葉に変換されてしまうので,そんな正攻法を取る前に,研究室に属している院生・教員のツイッターを覗いてみることをお勧めする.

そういうアカウントを探し出すのとか,そもそもつぶやきを読み解くのは技術が必要かもしれないけれど(そして,必ずしも研究室構成員のアカウントがあるわけではないけれど),その研究室に進学する上で,君が知りたいことと,その研究室の実態はかなり深く知ることができると思う.

ちなみに,どう読み解くのかまで詳しく説明してあげるほど,僕は親切ではないので,頑張って読み解いてみてください.

2016年2月11日木曜日

反応速度

最近,ここの更新が激減しているのは,忙しいというのもあるんだけれど,自分の反応速度が低下してしまっていることも大きい(結局,その律速も自分の忙しさではあるんだけれど).なんか思いついても,文字を書いてアップする前に旬が去ってしまうという.日々,そんな感じ.

2016年1月19日火曜日

設定

アニメでも映画でも小説でもなんでもいいんだけれど,見ていて,設定がガバガバなものでも許せるというか「細けぇことはどうだっていいんだよ!」って感じで見られるものと,なぜか小さな設定の違和が異常に気になってしょうがないものがある.なんなんだろうね?